一方で、著名なレストランの店主たちが先頭に立って、チップを廃止しようとしているという報道もある。今、チップの習慣は大きな節目に差しかかっているようだ。
ただし、米国のチップの歴史には、これまでにも大きな節目のようなものがたくさんあり、チップはそのすべてを生き延びてきた。
米国にチップを持ちこんだのは、南北戦争後に、世界を旅行した米国人たちだ。そしてチップは、最強の外来種のごとく広まり、根絶を目指すあらゆる努力をはね返している。
チップという自発的に追加でお金を渡す奇妙な習慣は、レストラン業界を中心として米国に広く根づいている。なぜこれほどしぶとく残るのかについて、学者の間では今も論争が続いているが、チップは今後も長く続くだろうという見方がほとんどだ。
チップの起源は、中世後期に英国貴族が使用人に渡した「ベール」と呼ばれる少額の金銭(心付け)だ。当初、これは追加の労働に対する謝礼や、苦しいときの援助が目的だった。
18世紀になると、地方の邸宅や宿屋の使用人などが、この心付けを日常的に求めるようになった。それに対する不満は、そのころから聞かれたという。
しかし、チップと社会についての著書がある文化史家のケリー・シーグレーブ氏によると、米国でチップの習慣が広まったのは南北戦争後のことだ。
この時期、ヨーロッパに旅行に行く米国人が大幅に増えたうえ、「金ぴか時代」と呼ばれる活況を受けて裕福になった米国人たちが、貴族の慣習を米国に持ちこむようになった。
チップを使って賃金を低く抑えようとする雇用者もいた。特に知られているのが、鉄道の車両製造や運行を手がけていたプルマン・パレス・カー・カンパニーだ。
この会社は、チップをもらっているからという理由で、ポーター(荷物運搬人)には生活費を下回る賃金しか支払わないことを公言していた。
米国でチップの習慣が広まったことには、人種差別が関連しているという議論もある。プルマンのポーターはすべて黒人で、低賃金の一因に人種差別があったことは間違いない。
人種差別は当時の米国社会で横行していたが、チップを渡すことが人種差別に当たると考えられていたかどうかは、定かではない。そのため、人種差別とチップとの関連性も不透明だ。この時期、チップを受け取っていた白人労働者も多いうえ、シーグレーブ氏によると、米国南部の白人が黒人労働者にチップを渡すことを拒否した事件もあった。
米国にチップが広まりはじめると同時に、反対意見も広まりはじめた。19世紀後半から20世紀前半にかけてのジャーナリストには、チップは非米国的だとする意見が多かった。
チップ自体が、社会的に階級が低い人に対して与えられるものであり、民主主義の価値観に反するという理由からだ。特に懸念されたのは、夏休みのアルバイトでチップを受け取る大学生で、それが「奴隷根性」とみなされた。
末端の労働者はチップで利益を得ていたにもかかわらず、労働者団体もチップの習慣に反対した。その結果、1915年にアイオワ、サウスカロライナ、テネシーの各州でチップが禁止されるなど、20世紀の初め頃には、チップ反対運動はある程度の成果を収めることになった。
当時の作家、ウィリアム・スコットは、チップに反対するあまり、それについて本まで書いている。
スコットによれば、ウェイターにチップを渡す習慣はレストランの店主が人件費を客に転嫁する手段であり、「民主主義の胸にできたがん」だった。
ただし、民主主義はその意見に賛同しなかった。チップを禁止した法律は、1926年までにすべて廃止された。そして1938年には、最低賃金とともにチップの最低額が定められ、米国の法律にチップが明記されることになった。
第二次世界大戦後、英国やヨーロッパでは、レストランでサービス料が導入されたことで、チップは衰退していった。しかし、米国のチップの習慣は廃れることなく、チップ輸入国だった米国は、チップ先進国になっていった。
1950年代以降、経済学者や心理学者によって、米国社会でのチップの役割が議論されるようになった。優越感に浸れるからだという説もあれば、社会の目を恐れてチップを渡しているという説もある。